2017年、京都。

建都以来数々の災厄に見舞われながらも1200年余の歴史の重みに耐えてきたこの街は、前世紀末・一昨年の二度に渡る有史以来の大惨事にもその表情を変える事なく、人間が有限の命を超越せんとして生み出してきた数々の文化の象徴として、深く静かに悠久の時を刻み続けている。

そして、8月も半ばを過ぎようとしていたこの日の夕刻、日中よりは多少勢いの衰えた蝉時雨の降る並木道を、浴衣姿の少年と少女が、揃いの朱色の鼻緒をつけた塗り下駄をからころ鳴らしながら歩いていた。

濃紺に白い絣(かすり)の入った浴衣に山吹色の帯を締めた少年は、傍らの少女を気遣って優しく声を掛ける。

「・・・歩きづらいの?」

白地に錦の手毬と藤の花をあしらった浴衣に若草色の帯を締めた少女は、無言のままうなずく。
凛とした気品を感じさせる端正な容貌を彩る深紅の瞳に、初めて身につけた浴衣と下駄の感触への戸惑いの色が浮かんでいた。
シャギーの入ったショートカットに揃えられた、蒼く輝く月を思わせる神秘的な色彩の髪。
深海に眠る真珠のような透明感を湛えた、白妙の肌。
美の神に愛でられるために生まれてきたかのような少女の繊細な右手に、少年の左手がそっと重なる。
その感覚に、少女は思わず身体を震わせた。

手のひらにかすかな震えを感じ取った少年は、はにかんだような笑顔を浮かべる。

「あ・・・ごめん、驚かせちゃったかな?」

少年の言葉に、少女はほのかに頬を染めた。

「・・・碇君の手・・・暖かかった・・・から・・・。」

「まだ時間はたっぷりあるから、ゆっくり行こう。・・・ね、綾波。」

傍目には仲の良い兄妹のように見える2人の姿に、すれ違った上品な老婦人が口元をほころばせた。





−2017年の送り火−






京都大学構内、形而上生物学研究室が入っている建物の自動ドアをくぐった2人を、外とは打って変わったひんやりとした空気が包む。
思わずほっと一息ついた2人に、玄関脇のロビーで読書をしていた初老の紳士が声を掛けた。

「やはり下駄では歩きづらかったかな。」

「あ・・・はい、少し・・・。でも、もう慣れました。
やっぱりいいですね、この雰囲気、風情があって。」

「冬月先生、・・・浴衣・・・ありがとうございます。」

自分の見立てた浴衣に身を包んだ儚げな少女。
その姿は、己が憧憬してやまないある女性の姿を思い起こさせる。
冬月はその想いを噛み殺すと、穏やかな微笑みを2人に向けた。

「なに、知り合いの呉服屋に拝み倒されて断り切れなかっただけだよ。
気に入ってもらえて何よりだ。」

その表情に隠された痛みを察するには、2人はまだあまりにも若過ぎた。

「先生、マヤさん達は?」

「仕事の都合で少し遅れるそうだ。20時には間に合わせると言っていたが。」

つい『20時』という言い回しを使った事に気づいた冬月は、自嘲混じりの苦笑いを浮かべた。

サードインパクトの直後、その正体が秘密結社ゼーレの意図していた人類補完計画であった事が公表され、特務機関ネルフは国連によってその名誉を回復された。
ネルフの幹部の中で只ひとり生き残り、その『後始末』を任された冬月コウゾウは、犠牲者の遺族の救済、生き残った職員の再就職の斡旋、残された設備・研究施設の委譲などに精力的に動き回り、2016年12月31日をもってネルフを正式に解体させた。
そして、身寄りのなくなった碇シンジと綾波レイを引き取って京都に居を構え、この4月から再び京都大学理学部教授として教鞭を取っていた。

惣流・アスカ・ラングレーは、約半年の入院・リハビリを経て重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を克服し、現在は米国・スタンフォード大学の大学院に留学して遺伝子工学を研究している。

また、冬月達と共に京都にやってきた伊吹マヤは、冬月家に下宿して2人の家庭教師をする一方で、かつての同僚青葉シゲル・日向マコトとソフトウェア制作会社を設立していた。

かくして、現在冬月邸の表札には4つの名字が並んでいる。








時計の針が7時半を回った頃、元・発令所のオペレータートリオが慌ただしく入ってきた。

「やれやれ、間に合った間に合った。」

ロックバンドの名前が大書されたTシャツにバミューダという格好で、缶ビールを満載したクーラーボックスを肩から下げている青葉。

「すいませーん、遅くなりましたぁ。」

アイボリーホワイトの半袖シャツにチノパンツという姿のマヤ。
先月26歳になったが、化粧っ気の少ない童顔のせいで、とても20代後半には見えない。
会社に来客があると、大抵アルバイトの大学生に間違えられてしまう。

「冬月先生、今夜は俺達まで呼んでくださってありがとうございます。」

幾何学模様のネクタイを締めたロイヤルブルーのワイシャツに汗のしみを作りながら、かつての副司令に深々と頭を下げる日向に、冬月はにこやかに応じる。

「いやいや、礼には及ばんよ。それより、どうかな、仕事の方は?」

「はい、おかげさまで何とか。」

入ってくる仕事はまだ大手の下請けが殆どだったが、3人は元々プログラミングのエキスパートとして業界にその名を知られていた上、冬月がその人脈をフル稼動させて彼らを売り込んでくれた事もあって、会社は順調に軌道に乗りつつあった。

隅のソファーに並んで座っているシンジとレイを目ざとく見つけた青葉が、早速2人を冷やかしにかかる。

「よぉ、おふたりさん、今夜は浴衣で送り火見物かい?粋だねえ。」

日向もニヤニヤしながら加わってくる。

「ほんと、お似合いのカップルじゃないか。まるで夫婦雛みたいだ。」

「俺たちゃ邪魔かもしれないなぁ、悪い悪い。」

「そ・・・そんな事・・・。」

シンジは耳まで真っ赤にしながらそう言いかけたが、以前級友の冷やかしに、
『違うよ!綾波とは別に何でもないんだ!』
と言い返して、レイをひどく傷つけてしまった事を思い出し、悲しくなって口をつぐんだ。
一方、レイは頬をほんのりと赤らめながら、表情を固くしてうつむいている。
そんな2人を見かねて、冬月が助け船を出した。

「さて、冷やかしはその位にして、そろそろ屋上に上がろうじゃないか。」

「それにしても冬月先生、毎日とびっきりの美女2人に囲まれて暮らしてるなんてうらやましいっす。
いや、冗談抜きで。」

「ああ、私もこの歳になってからいきなり娘と孫に囲まれて暮らす事になるとは思わなかったよ。
おかげで10歳は若返ったかな。」

バツが悪そうな笑顔を浮かべる青葉のおどけた口調につられて、冬月もつい軽口を叩いた。
浴衣姿のシンジとレイをうらやましそうに眺めていたマヤが、その言葉を聞きとがめる。

「先生!どうして私が娘でシンジ君とレイちゃんが孫なんですかっ!?
納得できません!10歳しか違わないのに!」

憤然として口を尖らせるマヤに、冬月は思わず相好を崩した。

「いや、すまんすまん、それでは孫3人に訂正しよう。それでいいかな?」

「・・・はい。」

マヤが大真面目に答えたので、その場にいた者は声を上げて笑った。
きょとんとしているマヤと、今でも滅多な事では笑顔を見せない少女を除いて。








この建物は最上階まではエレベーターが通じているのだが、そこから屋上に出るには階段を使わなければならない。
下駄で階段を上る事に慣れていないシンジとレイは、途中何度もつまずきそうになりながら、辛うじて屋上にたどり着いた。
外は相変わらずの蒸し暑さだが、吹き抜ける夜風が汗ばんだ肌に心地よい。
既に濃紺から漆黒へとその色を変えた空を彩るように、夏の星座が輝きを放っていた。

肩から下げていたクーラーボックスを下ろし、ぐるりと周囲を見回した青葉が素っ頓狂な声を上げる。

「ひゃあ、こりゃ文字通りの特等席だなぁ。」

青葉の言葉通り、8階建てのこの建物は、高い建造物の少ない京都では周囲の山並みを一望するのに充分な高さを持っていた。
おまけに、ここなら周りの喧燥に邪魔される事もない。
送り火を見物するには、まさにうってつけの場所だった。

「本当、ここからなら全部見渡せそう。こんないい場所をご存知だなんて、さすがは先生。」

そう言ってはしゃいでいるマヤに、冬月は幾分照れくさそうに応じる。

「いや、たまたま私の研究室がこの建物にあるだけの話だよ。
それより、足元に気をつけてな。」

「シンジ君、レイちゃん、さっきは冷やかして悪かったな、ほい、お詫びの印だ。」

青葉はクーラーボックスから取り出した缶紅茶をシンジとレイに手渡した。
そして、大人達用のビールを皆に配り終えると、冬月に向かってうやうやしく一礼した。

「それでは、冬月先生、乾杯の音頭をお願いいたします。」

冬月もわざとらしく咳払いなどしながら、おもむろに口を開く。

「おほん、え〜、それでは、皆の健康と幸福、シンジ君とレイの・・・の進展、更に伊吹君・青葉君・日向君の事業の発展を願って、乾杯!」

「「「「かんぱーい!!!!」」」」 「乾杯。」

「かーっ、うめえ。やっぱこの一杯のために仕事してるって感じだなぁ。」

「おまえは一杯じゃ済まないだろうが。」

「そっちこそ人の事が言えた義理か?」

青葉と日向が早くも2本目に手を伸ばす中、ビールを一口だけ飲んだマヤが不機嫌そうな顔を冬月に向ける。

「ところで先生、今『シンジ君とレイの』の後、何ておっしゃったんですか?」

「ん?『学業の進展』と言ったのだが、それがどうかしたかね?」

思わず口に手を当てたマヤは、慌てて何とか取り繕おうとした。

「あ・・・それなら・・・別に・・・。」

お願いだから誰も気づかないで、と祈るマヤ。
しかし、その祈りも空しく、すぐ横で2人のやりとりを聞いていた日向が、下品な笑いを顔に貼りつけながらマヤの顔を覗き込んだ。

「おや、マヤちゃんには一体何て聞こえたのかなぁ〜?」

「な・・・な・・・何でもありませんっ!」

つまらない邪推をしてしまった自分の胸の内を見透かされた恥ずかしさに、思わず返事がどもる。
その時、2本目のビールを空にした青葉が向けた懐中電灯の光が、真っ赤になっているマヤの顔を照らし出した。
青葉は面白そうなオモチャを見つけたいたずらっ子のような笑みを浮かべると、ぞっとするような猫なで声でマヤをからかう。

「マ〜ヤ〜ちゃん、正直に白状しなさい。かわいいお顔が真っ赤になってるよ〜ん。」

2人の無遠慮な視線にさらされたマヤの背筋に、おぞましい悪寒が走る。

「お・・・お酒のせいですっ!ほっといてください!」

「「おお〜、怖い怖い。」」

見事にユニゾンした日向と青葉は、顔を見合わせて笑い出した。

「もう!知らない!」

その柔らかそうな頬をぷうっと膨らませてそっぽを向くマヤ。
そのすねた子供のような愛らしいしぐさに、男達の表情が更に緩んだ。








そんな大人達の騒ぎをよそに、シンジとレイは両手でステンレス製の手すりを掴んだまま、眼前に広がる夜景を眺めていた。
通りは既に見物客でごった返し、旧盆の最後を飾るイベントにふさわしい賑わいを見せている。
送り火を引き立たせるため次第にその数を減らしてゆく街の灯に目を遣りながら、シンジはかつてこの地で父と出会った母に思いを馳せていた。

・・・母さん、父さんと出会った頃は、ここの学生だったんだよなぁ・・・。
・・・大学生の頃の母さんって、どんな感じの女性だったんだろう・・・?
・・・綺麗だったんだろうな、やっぱり。今の綾波みたいな感じかなぁ・・・。
・・・それにしても最近の綾波、前にも増して綺麗になったような気がする・・・。
・・・浴衣姿の綾波を見るのは初めてだけど、よく似合ってるよな、うん・・・。

「碇君・・・。」

「・・・へ?」

いつの間にか頭の中がレイの事に切り替わっていたシンジは、そのレイ本人に突然声を掛けられ、思わず間抜けな返事をしてしまった。

「何、考えてるの?」

『最近の綾波、前にも増して綺麗になった』などとは到底言えるはずもなく、しどろもどろになりながら、苦し紛れの言い訳を試みる。

「う・・・うん、母さん・・・と父さんはこの街で出会ったんだなあって。」

「・・・そう・・・。」

その声にわずかな翳りを感じ取ったシンジは、
・・・しまった、母さんとの事思い出させちゃったかなぁ・・・。
と内心舌打ちしながら、彼なりに精一杯のフォローを入れた。

「あ・・・いや、そんなに深い意味じゃなくてさ。
母さんは一体父さんのどこが良かったのかなぁ、なんてね。」

しかし、レイは無言のまま、かすかに憂いを帯びた表情で、空ろな瞳を東山の山並に向けていた。

・・・お母さん・・・碇君のお母さん・・・ユイさん・・・。
・・・消えゆく存在だった私を、碇君の許へ送り還してくれた人・・・。

最愛の妻を失ったある男の意図した計画のために造られ、その発動と共に無へと還る存在だった少女。
自分を造りし者の意志を自らの意志として、その日を待ち望んでいた少女。
そんな少女の心に、人間として生きたいという想いを芽生えさせた、ひとつの出会い。
少年とのふれあいを重ねるにつれ、止めどもなく膨らんでゆく、少女の想い。
その想いは、いつしか、少年と共にありたいという、もうひとつの想いを生んだ。
少年を守るため死を選んだ少女と共に、一度は消えてしまったはずの想いは、その魂と記憶を受け継いだ少女の中で再び甦る。
そして、運命の日、少女は遂に自分を造りし者の意志を拒み、自らの想いをその意志とした。
既に人にあらざる姿となっていた少女の、悲しいまでに一途な心に、その時神にも等しい存在となった女性、少年の母が応える。
彼女は少女の身体を人の姿に戻すと、人間として生きる道を選んだ少年の許へと送り出した。
2人で共に支え合いながら、未来を切り開いていってほしいという願いをこめて。

・・・そして、あの人とユイさんの出会いの地で、こうして碇君と一緒に・・・。
・・・私、今、とても幸せ・・・。でも、怖い。この幸せが消えてしまうのが、怖い・・・。

多くの犠牲と引き替えにもたらされた、平和な世界。
戦いとテストに心身をすり減らしていたあの頃が嘘のような、平穏な日々。
シンジと共にありたいという願いがかなえられた、夢のような毎日。
しかし、自分はいずれ消えゆく存在だという思いは未だに消えない。
かつては静かな諦観だったそれは、今や暗雲のような恐怖となってレイの心を侵食する。

・・・あの頃は、無へと還る事を望んでいたのに、今は、怖い・・・。

心に鈍い痛みを感じたレイの視界が、わずかに滲んだ。

その時、夜空にその稜線を浮かべている如意ヶ嶽、通称『大文字山』の中腹に、ぽつんと灯が灯った。
そして、それを合図にしたかのように、山肌に次々と炎が燃え上がり、勇壮な『大』の字が闇の中に出現する。
古都の夜空を彩る幻想的な火影を瞳に映したまま、立ち尽くす2人。
しばしの沈黙の後、レイの薄く小さな唇からつぶやきが漏れた。

「・・・綺麗・・・。」

眼前に広がる光景に見とれていたシンジが、感に耐えないといった様子で応じる。

「・・・うん、命の・・・輝きみたいだ・・・。」

その言葉を耳にした時、レイの心を覆った暗雲の雲間から、一筋の光明が差した。

・・・送り火・・・死者の魂を送る炎・・・やがて消えゆく運命(さだめ)の、儚い炎・・・。
・・・その炎が・・・命の・・・輝き・・・命の・・・。
・・・命・・・あの炎のように・・・消えゆくもの・・・輝く・・・もの・・・。

そして、レイは悟った。
いずれ消えゆく存在であるのは、自分1人ではない事を。
この世に生きる全ての命には、いつか必ず終わりが来る事を。
そして、その限りある命を精一杯生き、生命の輝きを放つ事こそが、人として生きる意味なのだという事を。
その瞬間、心を侵食していた憂愁は急速にその勢いを失い、歓喜の念に取って代わられてゆく。
レイはシンジの身体にそっと寄り添うと、その喜びを打ち明けた。

「・・・碇君、私・・・私ね、やっと・・・生きる意味に・・・気がついたの・・・。」

そして、何かを慈しむような微笑みを浮かべながら、深紅の瞳を輝かせてシンジを見つめた。
その美しさに、シンジは思わず息を呑む。

・・・綺麗だ・・・綾波・・・今までに見た・・・どんな綾波より・・・綺麗だ・・・。

闇に浮かぶ炎に照らされた、天使のような笑顔。
浴衣を通して伝わってくる柔らかな感触と、淡い温もり。
シンジは身体の芯から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

「・・・生きる・・・意味・・・って・・・。」

胸の高鳴りに顔を紅潮させながら問うシンジに、レイは静かに、しかし嬉しそうに言葉を続けた。

「限りある命の中で・・・精一杯生きるのが、輝いてみせるのが、・・・生きていく・・・意味なんだって。
・・・ありがとう・・・碇君の・・・おかげで・・・。」

シンジには、何故レイが自分に感謝しているのか見当がつかなかった。
しかし、今レイの心が喜びと希望に満たされている事は十分に理解できた。
そして、その事が何よりも嬉しかった。

「・・・うん、限りがあるからこそ、命は・・・貴いのかも、生きる事に・・・価値があるのかも・・・しれないね・・・。」

優しく微笑むシンジに、極上の夢を見ているような眼差しが向けられる。

「・・・だから、私・・・精一杯生きたいの。・・・碇君と・・・一緒に・・・。」

そのあまりにもストレートな言い回しに、思わず照れ笑いを浮かべてしまうシンジ。
しかし、何故か気恥ずかしさは感じられず、代わりに不思議な安らぎが心を満たしていく。
シンジは自分の右手に重ねられた、ガラス細工のように繊細な、しかし柔らかい手をそっと握り返した。

「そうだね、綾波・・・ふたりで・・・一緒に・・・。」

目の前の少年に包み込まれていくような心地良い錯覚が、少女の肌を桜色に染め上げる。
その時、視界の中心にあるシンジの笑顔が不意に滲んだ。
両眼に沸き上がってきた暖かいものがあふれ出し、頬を伝っていくのがわかる。

・・・私、泣いてるの?・・・悲しく・・・ないのに・・・、寂しく・・・ないのに・・・。

レイの脳裏に、2人目から受け継いだ記憶の中のワンシーンが浮かぶ。
何もなかった自分の心に、人間として生きたいという想いを芽吹かせた、シンジの嬉しそうな笑顔と、涙。

・・・そう・・・、私にも・・・嬉しい時・・・流す・・・涙が・・・あるのね・・・。

頬に残る透明な軌跡が、夜空を彩る火影を映してキラキラと輝いた。
生まれて初めて流した嬉し涙が、幾粒もの滴となって胸にしたたり落ち、白い浴衣に染み込んでいく。
レイの心を潤すかのように、静かに、優しく。












その頃、冬月達と共に北側の手すりのそばに移動していたマヤは、京都盆地の北東・松ヶ崎方面に灯された『妙法』の文字をかたどった送り火を眺めながら、頬を撫でる夜風の感触を楽しんでいた。
シンジとレイをこちらへ呼ぼうとして振り返ったマヤの目に、寄り添う2人の姿が映る。
その瞬間、涼やかだった表情が凍りついた。
何かを口にしかけるマヤを、隣で目を細めながら2人を見守っていた冬月が静かに制した。

「そっとしておきなさい、伊吹君。」

「・・・はい・・・、すみません・・・。」

恥ずかしさにうつむきながら、消え入るような声でそう答えたマヤは、心の奥底で燃え盛る何かに戸惑っていた。

・・・冬月先生のおっしゃる通りよ。もうシンジ君もレイちゃんも高校生なんだし・・・、
・・・2人で寄り添うくらい、別に何の問題もないじゃない。気にする方がどうかしてるわ・・・。
・・・なのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるの?潔癖性も程々にしなさいよね、マヤ・・・。
・・・そんな事だから男の人に敬遠されちゃうのよ。私だって・・・私だって・・・あんな恋人が欲しいのに・・・。








マヤはまだ、自分の心を焦がすものの正体に気づいていない。










<註>

作中『ここからなら全部見渡せそう。』という科白がありますが、実際に京都大学キャンパスの位置から五山の送り火全てが見渡せるかどうかは確認しておりません。



新世紀エヴァンゲリオンは(C)GAINAXの作品です。

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