・・・・・・・・・・・・ わたしは人形じゃない・・もう人形には戻れない・・・ 無に還りたい・・・還りたいのにもう還れない・・・ わたしはどこにいるの・・・夢と現実の狭間で・・・・ ・・・寂しい・・・寂しい・・・ ・・・・・・・でも・・・・・・・
EASY WAY OUT. Leaving me here to wonder why I couldn't be there by your side. シンジは暑さで目が覚めた。もっとも眠っていたのか、起きていたのかシンジ自身 もわかっていなかった。ただ時間だけがシンジの中を流れていった。もう何時間そ うしていたのかもわからない。 「・・・暑い・・な・・・」 シンジはそうつぶやいたまま動かない。ベッドに仰向けに寝た姿勢でぼんやりと天 井を見つめていた。耳から外れたままのイヤホンからは何の音も聞こえてこない。 バッテリーが底をついてどのくらいの時間が経っているのかもわからなかった。 「・・・くっ・・・」 シンジはよろよろと立ち上がるとエアコンの送風口に手をかざしてみた。だが、送 風口は沈黙したまま、涼風を送り出してはいなかった。シンジは軽い目眩を感じて 、しばらくその姿勢のままじっと目を閉じていた。締め切った窓の向こうから微か にセミの声が聞こえた。 「・・・だめだ・・・」 シンジはそうつぶやくと壁に手をつきながらリビングへと向かった。汗でシャツが 肌に張りつく。顎の下にはぬるぬるとした汗の感触がまとわりついている。 「・・・・・・」 シンジはリビングからキッチン、そして玄関へとゆっくり視線を巡らせた。ぼんや りとした眼差し、生気のない表情。シンジはリビングの窓から外を一瞥すると壁に 手をつきながら玄関へと向かった。 「・・・ミサトさん・・・」 シンジはミサトの名をつぶやくと、ゆっくりと玄関に座り自分の白いスニーカーを 引き寄せる。ぼんやりとスニーカーを見つめているともう何度目かもわからない嘔 吐感がこみあげてきた。シンジはそれをこらえながらスニーカーをはくと、そのま ま玄関を出た。 ・・・外・・か・・・ 外に出たシンジの耳にセミの声が飛び込んでくる。視界には明るい光が充満してい て、一瞬何も見えなくなった。シンジの五感は久しぶりに大量の情報を受けとめて 感覚を失い、何もない世界にシンジを突き落とした。だがシンジは恐怖感すら感じ ることもできずに、マンションの廊下の手すりに身体を預けてじっとしていた。 ・・・風が・・・ マンションの廊下を微かな風が通り過ぎ、シンジの感覚もゆっくりと戻ってきた。 シンジは手すりを離れると、俯いたままゆっくりとした足取りでマンションの廊下 を歩いて行った。 ・・・ねえ・・・ ・・・誰か・・助けてよ・・・ ・・・ ・・・・・・・ ・・・ひとりは・・・いやなんだ・・・ ・・・・・・誰か・・・・・・・ ・・・・・・助けてよ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・誰か・・・・・・・ 照りつける日差しがうな垂れて歩くシンジの首筋を焦がす。シンジは顎の先から汗 を滴らせて歩きつづけた。人も車も通ることのなくなった道路、廃虚と化した街、 砂漠、死の惑星、自らの手で殺した人々の魂が亡霊となって自分を責めつづける。 ここはそんな楽園。 「・・・逃げたい・・どこか・・・」 シンジのつぶやきを聞くものはいない。ただアスファルトの歩道に揺れる影が目の 前にあるだけだった。シンジは風を求めて俯いていた顔を上げて立ち止まった。 シンジの目に点滅を繰り返す信号機がぼんやりと映る。信号機のあるあたりが、ち ょうど緩やかな上り坂の頂上になっているため、向こう側は見えない。生暖かい風 がその方向から吹いてくる。 「・・・・ここには・・・いたくないよ・・・」 シンジは点滅を繰り返す信号をぼんやりと見つめながらつぶやいた。陽炎がゆれて 信号機も、アスファルトの道路に記された文字も、その周辺のすべては輪郭をあい まいにしている。シンジの耳にはセミの声も風の音も、何の音も聞こえなかった。 ただ自分の心臓の鼓動だけが脳裏に響いていた。 「・・・助けて・・・」 シンジの唇から微かな声が漏れる。シンジは自分が声を発していることにも気づか なかった。 「・・・・・・・」 陽炎に揺れる視界に変化が起こったのに気づいたのは、しばらくたってからだった。 アスファルトの丘の頂点に何かが立っている。それはゆっくりとこちらに近づいて 来るようだ。シンジは特にそれに注意を向けるわけでもなくぼんやりと見つめていた。 「・・・熱・・・い・・・」 シンジは足元のアスファルトの熱さに気づいてつぶやいた。だが、スニーカーの底 を通して感じる焼けるような熱さでさえ、今のシンジには意識を保つための助けに なっているような気がした。足元に視線を落としていたシンジがゆっくりと視線を 上げると、人影がシンジのすぐ先まで近づいて来ていた。 「・・・!・・・」 シンジは人影を認識し、それが彼女であると気づいた瞬間、反射的に顔を伏せた。 「・・・・・・・・」 彼女はシンジの前数メートルのところまで近づいた時、一瞬だけその紅い瞳をシン ジに向けたが、後は立ち尽くすシンジのすぐ横を何もなかったかのように通りすぎ ていった。シンジは何かに耐えるように俯いたまま、ゆっくりと遠ざかっていく彼 女の靴音を聞いていた。 「・・・たす・・けて・・・」 シンジの足元に汗が黒いシミをいくつも作っていた。それはアスファルトの熱によ って僅かの間をおいて蒸発し、消えていく。やがて彼女の靴音が小さくなり、聞こ えなくなった。シンジはゆっくりと振り返る。彼女の後ろ姿が小さくなっていくの が見えた。制服のスカートが風に揺れている。しばらく何かにすがるような表情で 遠ざかる彼女を見つめていたが、やがて彼女の姿は見えなくなった。 ・・・・・・ひとりだ・・・・・・・ ・・・僕は・・・ひとり・・・僕は・・・ シンジは胸に広がる痛みに耐え切れずに顔を顰めた。体中が震え出してどうするこ ともできなかった。汗にまみれた身体を僅かにかがめると大きく息を吐き出して足 元を見つめた。そのままきつく目をとじると全身に力を込めた。そして目を開ける とはじかれたようにシンジは走り出した。何かから逃げ出すように。
シンジは走った。 ・・・助けて・・・助けて・・・助けて・・・ ・・・助けて・・・誰か・・・助けて・・・ シンジには何も見えていなかった。ただ苦しさから逃れたい一心で走った。どこま で走れば、どこまで逃げればいいのかも考えていなかった。 ・・・誰か・・・誰か・・・誰か・・・ ・・・助けて・・助けてよ・・・僕を・・助けてよ!・・・ シンジは心の中で叫び続けた。心臓が悲鳴を上げているのもわからなかった。ただ 何かを求めて、誰かを求めて、誰をも拒絶して走っていた。 ・・・ひとり・・ひとりなんだ・・・誰か・・・・ ・・・助けて・・・助けて・・・助けて・・・助けて・・・ ・・・僕を・・・僕を・・・僕を助けて・・・ やがて彼女の後ろ姿がシンジの視界に微かに映る。シンジは彼女の後ろ姿だけを見 つめた。まるで彼女の後ろ姿にすがるように走りつづける。すぐに彼女の後ろ姿が 近づいてくる。 ・・・僕を・・・僕を・・・僕を・・・ 彼女が後ろから急激に近づいてくるシンジの足音に気づいて立ち止まる。ゆっくり と振り返る紅い瞳。それは近づくシンジを無表情に見つめていた。交錯する視線。 シンジは彼女の紅い瞳を見た瞬間に、心臓を鷲掴みにされたような恐怖感とも嫌悪 感ともつかない感情に襲われた。 ・・・綾波! シンジの身体は紅い瞳に射抜かれたように硬直した。足がもつれて前のめりに彼女 に向かって倒れ込んだ。全力で走ってきたシンジの身体はそのまま彼女にぶつかり シンジの体重を受け止めきれない彼女はシンジと共にアスファルトに後ろ向きに転 がる。 「・・・うっ・・・」 シンジは焼けたアスファルトに激しく右膝を打ちつけた。膝上までの半ズボン、そ のむき出しの膝から流れる赤い血。濃いブルーのTシャツの左肩のところが破けて いた。 「・・・うぅ・・・」 シンジは自分のうめき声を聞いて顔を上げる。シンジから2メートルほどのところ でゆっくりと彼女が起き上がろうとしているのが見えた。シンジは反射的に立ち上 がると彼女の元に走った。右膝が激しく痛んだが何とも思わなかった。 「・・・あっ」 シンジは起き上がろうとしていた彼女の右腕をつかむと乱暴に引いた。彼女の左肘 と左腕から血が滲んでいるのが見えた。 「・・・起きてよ・・・」 シンジは彼女の腕を何度も引いて、無理矢理立たせながらつぶやくように言う。 彼女は痛みに耐えながらシンジの方を見ようと顔を上げる。 「・・・あ・・・んっ・・・」 「・・・起き・・て・・・」 シンジはそのまま彼女の白い腕を自分の方に引くと両手で彼女の上半身を乱暴に掴 んだ。まるでどこかに逃げてしまうのを恐れているかのように。だがそんなシンジ とは対照的に、彼女はその紅い瞳に何の感情も表すことなくシンジの横顔を見た。 シンジは彼女の方を見ずに彼女を両手で拘束したまま、無理矢理歩き出した。 「来てよ・・・一緒に来てよ・・・側にいてよ・・・」 彼女は何も言わずにシンジを見ていたが、シンジに引きずられるように歩き出した。 「・・・助けてよ・・ひとりにしないでよ・・・」 シンジの微かなつぶやきが聞こえたが彼女は表情を変えることもなくシンジに拘束 されたまま歩いていた。ふと視線を自分の左腕の傷に向けて、そのまましばらく見 ていた。 「・・・ひとりは・・もう・・・いやだ・・・」 シンジがうつろな瞳でつぶやいた。彼女はシンジの横顔を見上げ、その病的な瞳の 色を見たが、何も言わず視線を前に向けた。シンジの身体が微かに震えているのが 伝わってきた。 「・・・ひとりは・・・いやなんだ・・・」 シンジは彼女が何の抵抗も示さないにも関わらず、彼女を拘束した両手の力を緩め ようとはしなかった。シンジは左手を彼女の背中から左脇腹にまわして白いブラウ スをきつく握っていた。歩くたびにブラウスのすそが制服のスカートから引き出さ れて彼女への拘束が緩む。シンジはそのたびにブラウスを握り直す。やがて、彼女 の白い脇腹が露になった。 「・・・・・・」 シンジは右手を彼女の左脇に差し込んでブラウスを握っていた。彼女は痛みを感じ たのか一瞬目を閉じると右手をシンジの右手に重ねてシンジの手を下にずらそうと した。だがシンジはそれを感じると、彼女が自分から離れることを恐れているかの ように、さらに右手に力を込めて彼女を自分の方に引き寄せた。 「・・・・・・」 彼女は無表情にシンジの横顔を見上げたが、何も言わなかった。シンジがしっかり と彼女を抱きかかえているために彼女の白いブラウスも汗によって白い肌に張りつ き、上気した頬を汗が伝っていた。それからシンジも彼女も一言も口を開かなかっ た。ただ、2人の息遣いだけが聞こえていた。
どのくらい歩いたのかシンジにはわからなかった。ただ疲労感で意識が朦朧として いた。腕の中の彼女は何も言わずシンジに合わせて歩いていた。シンジは国道沿い のバス停を見つけるとベンチに倒れ込むように座った。彼女もシンジに引きずられ るように隣に座る。シンジが彼女の方を見ると彼女の紅い瞳もシンジの方をじっと 見つめていた。シンジは彼女から視線を逸らし、うつむきながら言った。 「大丈夫だよ・・・」 「・・・・・・」 バス停は小さな木造の小屋のようになっていて、道路に面した一面を除いて三方を 壁が囲んでいた。頭上には斜めに屋根がついている。ベンチは国道に面するように 奥の壁に作り付けられていた。 「・・・僕等は監視されてるから・・・」 「・・・・・・」 「・・・助けを求めれば・・・君はすぐに・・・」 彼女は視線を下げるとゆっくりその両手をシンジの右手に置き、自分のブラウスを 握っているシンジの右手を外そうとした。だがシンジはそれを拒絶するように右手 に力を込める。その時初めて彼女が口を開いた。 「・・・痛い・・の・・・」 シンジは彼女の声を聞くとはっとしたように両手の力を抜いた。彼女が声を発する ことに驚いたように、まるで人形が喋るのを目の当たりにしたような表情で。 「・・・ごめ・・・・」 彼女はゆっくりとシンジの右手を解き、次に背中からまわされたシンジの左手の指 を両手で丁寧に解いていった。シンジの指はずっと力を込めて握られていたために 固くこわばり、シンジ自身では開くことができなくなっていた。彼女の白く細い指 がシンジの指を一本ずつ優しく解いていく。シンジはそれを呆然と見つめていた。 「・・・・・・」 彼女はゆっくりと立ち上がった。微かな風が彼女の制服のスカートを揺らす。その まま彼女はシンジの方を見向きもせずにゆっくりと歩きだした。シンジは呆然と彼 女を見送っていた。彼女は国道を横切り、左右に視線を巡らせると、自分達が歩い てきた方向に歩き出した。 ・・・帰る・・の?・・・ シンジはこちらを振り返る事無く、真っ直ぐ前を見て歩いて行く彼女を見ていた。 「・・・行かないでよ・・・」 彼女の後ろ姿が小さくなる。陽炎が儚げな後ろ姿を揺らしていた。やがて彼女が見 えなくなると、シンジは耐え切れずに頭を抱えて泣き出した。 「・・・僕は・・・僕・・・は・・・うぐっ・・・」 シンジの鳴咽は誰もいない国道を渡る生暖かい風にかき消された。シンジはそのま まの姿勢で泣き続けた。あれほど強かった日差しも西に傾き、今はあたりを赤紫に 染めていた。 ・・・ひとり・・・ひとりなんだ・・・ ・・・誰もいないんだ・・・ ・・・違うんだ・・・・ ・・・やっぱり・・・違うんだ・・・ しばらくシンジは泣き続けていた。暑さも痛みも感じなかった。言いようのない孤 独感に押しつぶされそうだった。だが数分後、シンジは暗黒の海に沈んだ自分のす ぐ近くに人の気配を感じてゆっくり顔を上げた。 「・・・・・・」 そこには水に塗れた白いハンカチを右手に持った彼女が立っていた。彼女はシンジ の前に跪くと、右手のハンカチで丁寧にシンジの右膝を拭いた。シンジの右膝から 下は、転倒した時に負った傷からの出血で赤黒く染まっていた。彼女は無言でシン ジの右足を拭き続ける。真っ白いハンカチがすぐに赤く染まった。 「・・・あの・・あ・・うぐっ・・あの・・僕・・・」 シンジは泣きながら彼女を見ていた。彼女はシンジの右足を拭き終わると、じっと 傷口を見つめた。しばらく見つめた後、ゆっくりと立ち上がり丁寧にハンカチをた たむと制服のポケットに入れた。そのまま彼女はさっきと同じシンジの隣に座った。 「・・・・・・」 シンジは涙で霞む目で隣に座った彼女を見た。シンジの目に何の手当てもされてい ない白い腕が映った。彼女は何も言わずに遠くを見ている。 「・・・あ・・・・ハンカチを・・かして・・」 シンジはそう言うのがやっとだった。それ以上は言葉が出てこなかった。彼女はシ ンジの方を見た。その紅い瞳からは何も読み取れない。しばらくシンジを見ていた が、視線を落とすとポケットから先ほどのハンカチを取り出しシンジに向かって差 し出した。シンジはそれを受取ると手を伸ばして彼女の左腕を優しくつかみ肘と腕 の傷を拭いた。その白い腕にできた傷は埃さえはらわれておらず、泥にまみれてい た。痛みがあるのか、彼女は時折目を閉じたり、唇を震わせたりしていた。だが決 して声を出そうとはしなかった。 「・・・・・・」 シンジも彼女も無言だった。だがシンジは彼女の傷を拭いている間も、止めど無く 溢れてくる涙を止めることができずにいた。やがて傷を拭き終わったシンジはその 手を止めた。 ・・・側に・・・いてよ・・・ ・・・お願い・・・お願いだから・・・ 彼女の左手を放したシンジはそのまま彼女の膝の上にかがんだ姿勢で静かに泣いて いた。 「・・・うぐっ・・・・あや・・な・・・・み・・・」 シンジはそう声に出すと彼女の膝に崩れるように倒れ込み、鳴咽を漏らして泣き出 す。 「・・・・・・」 彼女は無表情にシンジを見ていたが、シンジの手からそっとハンカチを取ると、シ ンジの拭いた左腕の傷に視線を移した。傷はそれほど深くはないようだ。彼女は傷 をひとしきり見つめた後、視線を膝の上で泣き続けるシンジに戻した。そしてハン カチを左手に握り締めると置き場のない右手をしばらく見つめていたが、そのまま そっとシンジの背中に置いた。
シンジは軟らかな感触の中で目が覚めた。ゆっくりと瞼を持ち上げる。暗い。自分 は軟らかな何かに包まれているようだ。目が慣れてくると視界にアスファルトの路 面が映る。シンジはゆっくりと身体を起こした。あたりはすでに夜。まばらな街灯 が国道を照らしている。 「・・・・・・」 シンジは彼女の膝の上で寝ていたのに気づいた。彼女も上体をベンチが作り付けら れたバス停の壁にあずけて目を閉じている。 「・・・あや・・な・・み・・・」 シンジはじっと彼女の寝顔を見つめていた。そしてゆっくりとマンションを出てか らのことを思い出していった。 ・・・僕は・・・僕は・・・ 久しぶりに味わった安らかな眠りと目覚めの余韻が急速に遠のいて行く。シンジの 胸に逃れることにできない現実が苦い感触とともに重くのしかかってくる。 ・・・いつまで・・続くんだ・・いつまで・・・ シンジは彼女の白い頬を見つめたまま全身が冷たい汗に包まれていくのを感じた。 軽い嘔吐感がこみ上げてくる。シンジは目を閉じてそれをやり過ごす。 「・・・くっ・・・」 シンジは目を開けるともう一度彼女の寝顔を見つめた。疲れきったシンジの心にも、 彼女の姿はたとえようもなく美しいものに思えた。だが同時にそれはシンジにとっ て恐怖の対象でもあった。 ・・・行かないで・・・行かないでよ・・・ シンジの瞳に恐れと狂気の色が浮かぶ。シンジはゆっくりと彼女の肩に手を伸ばした。 「・・・う・・んっ・・・」 シンジは彼女の肩を掴むと乱暴に唇を重ねた。彼女が驚いて目を開ける。彼女の頭 が背後の壁に強くぶつかった。 「・・・んんっ・・・ん・・・」 彼女は反射的に両手でシンジを押しのけようとしたが、シンジは全身の力で彼女を 壁に押し付けていた。彼女は何が起こったのかを理解するとシンジの胸に両手を置 いた姿勢のままじっとしていた。 ・・・行かないで・・行かないでよ・・・綾波・・・ シンジは何かから逃れようとするように彼女の身体に自分の身体をあずけていった。 シンジの体重を支えきれない彼女は左手をベンチについたが、それでも支えきれず に2人は重なるようにベンチに倒れる。 「・・・ん・・・・」 ベンチに倒れ込むと自然に唇が離れた。シンジは目を開けると彼女の瞳を見つめた。 ・・・くっ・・・ そこには翳りのない紅い瞳があるだけだった。彼女はその紅い瞳でシンジの黒い瞳 をじっと見上げていた。深く、澄んだ紅い瞳で。だがそこには何もなかった。 ・・・どう・・して・・・・・・どうしてだよ・・・ シンジは耐え切れずに彼女を押し倒した姿勢のまま目を閉じた。そのままのろのろ と起き上がると彼女とは逆の方向に倒れ込んだ。 「・・・君は・・・君は・・・本当に・・・」 シンジが小さな声でつぶやいた。だが彼女は何も言わずに起き上がり、静かにシン ジの背中を見つめた。彼女自身も気づいてはいなかったが、かすかに紅い瞳が潤ん でいた。
午前の太陽が国道を歩く2人を照らしていた。シンジは彼女の右手首を握ったまま うつろな瞳で歩きつづけていた。彼女はときおりシンジの方に視線を走らせてはい たが、今までと同じように無言でシンジの少し後を歩いていた。 「・・・動いてるのか・・・」 シンジは国道に面して置かれた清涼飲料の自動販売機を見ながらつぶやいた。彼女 は自動販売機ではなく、つぶやくシンジを見た。シンジは先ほどから耐え難いほど の渇きを感じていた。シンジは彼女の右手首を握ったまま自動販売機の前まで来る と、ポケットをさぐってコインを探した。 「・・・ない・・・」 シンジは呟いた。シンジはポケットの中に右手を突っ込んだ姿勢のまま、ぼうっと 自動販売機を見上げた。より強い渇きがシンジを襲う。自動販売機からはかすかな うなりが聞こえる。 「・・・喉が・・乾いて・・・」 シンジが小さくつぶやいて黙っていると何かがシンジの視界を遮った。 「・・・な・・・」 シンジはそれに視線を移した。それは彼女が差し出した左手だった。彼女の白い手 にはコインが乗せられていた。 「・・・・・・」 彼女は無言でシンジにコインを差し出している。シンジは彼女からコインを受け取 ると自動販売機でスポーツドリンクを買い、プルタブを開けると一気に半分ほど飲 んだ。落ち着いたシンジは彼女に視線を移すと右手の中のスポーツドリンクを勧め ようかと口を開きかけた。 「・・・あ・・あの・・・」 だが、彼女は視線をシンジに向けることなく遠くを見ていた。まるでこちらに興味 を示していないようだった。シンジはしばらくそうして彼女を見ていたが、彼女が 何も反応しないのと、自らの渇きに勝てずに残りの半分を飲み干した。 「・・・行こ・・・う・・・」 シンジは空缶を投げ捨てると、再び彼女の手を引いた。その時になってようやく彼 女はシンジの方を見た。シンジはすばやく視線を逸らすとまた歩き出した。
目の前に海が広がっていた。太陽はほぼ真上にある時間。打ち寄せる波の音が2人 を包んでいる。シンジの視界に白い建物が映った。それは大きな物置のようにも見 えるし、観光客相手の簡単なレストランのようにも見える。ただ、現在使われてい ないのは明らかだった。炎天下を歩き続けてきたため、日陰が恋しい。シンジは彼 女の右手を握ったまま白い砂浜に降りていった。 「・・・あれ・・は・・・」 シンジは彼女の方を見ずに言った。彼女は視線をシンジの方に向けただけだった。 2人は砂に足を取られながら建物に近づいていった。 「誰も・・いない・・・・」 建物は観光客向けの小さなレストランか喫茶店のようだった。木造だがしゃれた作 りになっている。外観は白で統一され、さわやかさを演出していた。使われていた 時には多くの客で賑わったことだろう。しかし、人のいなくなった現在では風雨に まかせて寂れるままになっていた。シンジは彼女の手を引いたまま壊れたドアを押 し開けて中に入っていった。 「・・・・・・」 白い内装が不思議なほど奇麗に残されている。そのため中は外からの光でかなり明 るかった。ガラスの割れた窓からはゆるやかな風が汐の香りを運び、白い波と青い 水平線が見渡せた。枯れた観葉植物に砂だらけのテーブルと椅子。外観と同じく、 内装もしゃれていた。 「・・・・・・」 シンジは無言で陽の当たらない場所にある椅子に身体をあずけた。その時になって ようやく彼女の右手を開放した。彼女はシンジの傍らに立ったまま窓から海を見て いる。 「・・・君・・は・・・」 シンジが足元の貝殻を見つめながらつぶやいた。シンジの声は汐風にのって朽ちた 空間をただよいながら彼女に届く。だが彼女は無表情に紅い瞳を海に向けたまま動 かなかった。彼女の蒼い髪が汐風を受けて揺れている。時折瞬きをするだけの紅い 瞳。何も語らない唇。ただ海を見つめているだけの存在。 「・・・君は・・・」 シンジの周囲の汐の香りが揺れた。シンジはそれを感じ取ると言いようの無い不安 感に襲われて顔を上げた。彼女が背を向けてドアに向かって歩いているのが見えた。 シンジは駆け出して彼女を追おうとした。だがシンジは自分でも理解できない何か によって動けない。 ・・・待ってよ・・どこ行くんだよ!!・・・ ・・・どこ行くんだよ!!・・・ シンジは彼女を呼ぼうとした。しかし声を出すこともできなかった。 ・・・ここまで一緒に来たのに・・・ やがてシンジは気づいた。恐れている自分に気づいた。彼女が違うことを認めたく ない自分に気づいた。彼女が彼女ではないことを認めるのが恐い。それを知ること が恐い。それは絶対的な恐怖。逃げ道は・・・ない。 「・・・い・・や・・・だ・・・」 彼女がドアを出て行く。軋んだ音を立ててドアが開く。 「・・・いやだ・・・いやだよ・・・そんなのいやなんだよ!!」 シンジは椅子から立ちあがると、ドアに向かって走った。ドアを一気に押し開ける と軋んだ音がさっきより高いトーンで耳に響いた。彼女の姿を探そうとしたシンジ の瞳に、すぐ目の前にかがんでいる彼女の姿が飛び込んできた。反射的に顔を上げ た彼女の右手には薄汚れたガラスのビンが握られていた。ビンの中には澱んだ透明 な液体、おそらく水がたまっている。彼女はその水を左手の手のひらに移し、口に 運ぼうとしていた。 「・・・何を・・・して・・・」 そうつぶやいたシンジから視線をはずした彼女はゆっくりと左手の水を口に運んだ。 「・・・うっ・・・」 彼女は水を吐き出すと、右手のビンを見つめた。どう見ても飲めるとは思えない澱 んだ水が太陽の光をゆらゆらと反射している。 ・・・喉が渇いてるの?・・・ ・・・そんなに乾いてるの?・・・ ・・・だったらどうしてさっきの販売機で・・・ シンジは彼女が販売機で自分に差し出したコインを思い出した。きっと最後のコイ ン。それを差し出す彼女。 「・・・くっ・・・」 シンジは奥歯をきつくかみ締めると彼女の右腕を掴んで立ち上がらせた。彼女は右 手で握ったビンを落としてシンジに引かれるままに立ち上がる。そのままシンジは 彼女を建物の中に引っ張っていく。彼女は抵抗することなくシンジに従った。 「・・・どうして・・・」 彼女に向かってシンジが言った。彼女はじっとシンジを見つめている。 「君は・・・君はどうして・・・」 彼女はただ紅い瞳で見つめるだけだ。何の感情もあらわさず、ただじっと見つめる だけだった。 「・・・どうして何も言わないのさ・・どうして僕に従うのさ・・・」 シンジは彼女の瞳を見ることができなかった。見るのが恐かった。知ってしまうの が何より恐かった。 「・・・どうして・・・どうして抵抗しないんだ!!」 シンジは自分が何を求めているのかを理解した。 「・・・君は・・・君は・・・・・・」 シンジは続く言葉を口にするのをためらった。全身が震えだして止めようがなかっ た。それでもシンジは全身の力と最後の精神力を使ってその言葉を絞り出した。 「・・・・・誰・・・なんだ・・・・」 シンジは俯いたまま黙った。繰り返す波の音だけが朽ちた木造のレストランの中を 漂っていた。2人の間の時間の流れは止まっていた。永遠と瞬間の狭間で2人は向 き合って立っていた。 「・・・綾波レイ・・・」 彼女の声にシンジは顔を上げた。シンジの黒い瞳が彼女の紅い瞳をとらえる。 純粋な瞳、そう、純粋無垢な紅い双眸。そこには何もない。シンジの求めるものは 何もなかった。シンジは自分の中の最後の光が消えたのを自覚した。 ・・・そん・・・な・・・ 「・・・だけど、あなたが求めてくれる綾波レイとは違うのかも知れない・・・」 シンジと彼女は見つめあったまま動かない。 ・・・波の音、汐風、汐の香り。 「・・・もう・・・い・・・」 シンジはゆっくりと彼女に背を向けた。彼女はずっとシンジを見つめている。シン ジがドアに向かって歩き出した時、彼女が瞬きをした。ドアに向かうシンジの背中 に彼女の声がかすかに届いた。 「・・・わたし・・・」 シンジは黙ったままゆっくりと出て行く。 「・・・わたしが話すと・・あなたが・・・」 ・・・僕が・・・ シンジは建物を出た。もう波の音しか聞こえなかった。 「・・・あなたが・・・悲しそうな目を・・辛そうな目をするから・・・」 彼女は一人残された白い空間で、遠ざかるシンジの背中をじっと見つめていた。 「初めて・・・あなたと病院で話した時・・・そうだったから・・・」 彼女の紅い瞳から涙が一筋、白い頬を伝って落ちた。 ・・・波の音、汐風、汐の香り。 彼女がつぶやいた・・・・・・微かな小さな声。 「・・・わたし・・・」 そして彼女は何もない紅い瞳を遠い海に向けた。 Fin.

作者あとがき。

  「R.E.I.」をご訪問のみなさま、ならびに@isaoさんこんにちは、shinです。
  今回は私のページ「FLY ME TO THE MOON」の 50000ヒットを@isaoさんが踏んで
  くださった記念としてこの作品を送らせていただきました。この作品は僕にとっ
  て初めてのシリアスな短編なのですが、新しいアプローチをしたつもりです。

  タイトルの「EASY WAY OUT.」は Praiseというアーティストの曲です。この曲を
  何度も聴いているうちに今回の作品のようなイメージができあがりました。
  書いているうちにシンジが自分になっちゃうというか、綾波に対する自分の気持
  ちみたいなのが出たり、作品世界に自分が入っちゃったりして随分苦しかったり
  しましたが、ま、なんとかできたので良しとしましょう。(爆)
  ちなみに「EASY WAY OUT.」の日本語訳は「逃げ道」らしいです。

  長くなりましたが最後に、いつもお世話になっている@isaoさん、そして読者の
  みなさまに感謝の言葉を述べさせていただきまして作者あとがきとさせていただ
  きます。
    









written by shin.(1997.11.17) shin@cinderella.co.jp.
NEON GENESIS EVANGELION copyright (C)GAINAX/Project EVA・TXV.NAS.





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