その一瞬、周囲の人間が振り返った。
「どういうことよ!遅れるって?」
女は駅の構内という場所にも関わらず、手にした携帯電話に向かって大声で話している。
「場所?そりゃあ分かるけどさ、あたしを誰だと思ってるのよ。」
女にしてみれば、周りがうるさいので自然と声が大きくなったと言うところだが、得てしてそういう場合必要以上に声が大きくなってしまい、そしてそれに気が付かないのは自分だけという状況になってしまう。
まさに今の女がその状況であった。
「理由は何なのよ理由は、待って?何を・・・ちょ、ちょっと!」
必死の制止も虚しく、女は向こう側から切られた携帯電話を耳元から離し、ただ呆然とそれを見つめるしかなくなってしまった。
「すっぽかされたんだぜ・・・」
「捨てられたんじゃないのか?」
「声掛けてみようか・・・」
周りからは様々な声が聞こえてくる。その数は見聞きしていて者の数に比べて圧倒的に少なかったが、感想としては皆似たような物であった。
その一方で、その声は呆然としていた女を正気に戻しもした。
自分の置かれた状況を理解しても動揺するそぶりなど全く見せず、まさに近よらんとする男どもをその美しい瞳で追い返し、ごく自然な仕草でハンドバッグに携帯電話をしまうと、女はタクシー乗り場に向かって軽やかに歩き出す。
(口には出さなかったけど、あれは絶対男ね。)
目眩がするような人混みをかわしながらだったが、おそらく今頃その恋人に肩を抱かれ、楽しく町を歩いているだろう親友の姿が簡単に想像できる。
(帰っちゃおうかしら?)
女ははたと立ち止まって顎に手をやる。
初めは余り気乗りのしなかった自分を熱心に口説いた本人が来ないのである。そう考えても無理はない。
(けど、それじゃあ悔しいのよね。)
今から帰っても取り立ててやることがあるわけでもない。加えてここでそのまま帰ってしまうことも、まるで過去の呪縛から逃げているようで、後味が悪くなるに違いないことは分かっていた。
(ま、行くだけ行ってみますか。)
100%心の整理がついたわけではないが、ようやく女は決心してハンドバッグを持ち直す。
「行くわよ、アスカ。」
その微かな呟きは、周囲の雑踏に飲み込まれて消えていく。だが、アスカにとっては久々に出した声であった。
惣流=アスカ=ラングレーにとって、ここは初めての場所であった。
だからといって、別にその命が脅かされるような危険があるわけでもなかったし、これから会う人間に負い目があるわけでもなかったから、逡巡する必要など全くないはずであった。
(しっかりしなさい、アスカ。)
自分でもそれは分かっているはずなのだが、やはり体は緊張しているようで、チャイムを押している指が微かに震えている。
指を離して待つこと十数秒、ようやく目の前の扉が開いた。同時に室内の涼やかな空気を身に纏い、一人の女性が顔を出した。
「お久しぶり。」
「・・・ひさしぶり・・・ね。」
アスカは目を見張った。
目の前の人物は自分の記憶とは違いすぎた。十年前とも、七ヶ月前とも。
「ファースト・・・よね。」
アスカは思わずレイに指を向け、じっくりと確認するようにレイに尋ねる。
レイは変わっていた。
その頭髪は変わらない空色だったし、元々そのような癖っ毛なのかお気に入りなのかは分からないが髪型は今だシャギーではあった。が、その長さは肩付近まで伸ばされ、見る者にその印象を一変させていた。
更に服装。中学の制服と学校指定の水着と運動着、そしてプラグスーツとウェディングドレス。アスカはレイの着ている服はこれしか見たことがなかったのだが、目の前の女性は若草色に白の細いストライブの入ったマタニティドレスに、僅かにクリーム色の混じった白い薄手のカーディガンを羽織っている。
そして最大の変化はその体型であった。
身長は成人した女性として平均か或いは僅かにそれ以下かと言う程度だが、腹部が極端に膨れている。あまり知識のないアスカではあったが、臨月かそれに近い状態であるのは理解できた。
「ええ、洞木さんは?」
「ヒカリ?遅れるって。」
「そう。なら入って。」
「お、おじゃまするわ。」
レイはそんなアスカを見て満足したのか、口元を軽くほころばせてアスカを室内に招く。
アスカはその記憶との余りのギャップに精神が追いついて行かず、ただレイの先導するまま居間に案内されるのであった。
9年前、松代
リツコはようやく仕事に切れ目を見つけて、研究室の中で遅めの昼食を摂っていた。
話相手がここにはそれほどいないせいもあり、必然的に報告書の類を眺めながらの昼食ということが多いのだが、この日も例に漏れずそうなっていた。
「どれもこれもどうでもいいことばかり・・・」
自分はかつてのように権力の中枢にいるわけではない。入ってくる情報もそう多くはないのは理解できるが、ここまでくだらない情報が多いと森林資源の枯渇を本気で心配してしまう。
ミックスサンドを頬ばりながら、リツコはまた別の書類に目を通す。
「これは・・・」
リツコはその書類を手にとってよくよく内容を確認する。が、やはり見間違いではない。
「間違いないわ・・・そんな・・・」
それでもそこに書かれた情報を信じることが出来ない。そんなことあり得ないはずだったし、現に今までそうだった。
何かの間違いではないかと情報発信者の所属と名前を確認し、電話の内線ボタンに手を伸ばす。
十数分後、保健課の女医がリツコの研究室に呼び出された。
「これを作ったのはあなたね。」
「はい。何かご質問でも?」
リツコよりも10近く年齢の上だろう女医は、なぜ自分がこんな所に呼び出されたのか皆目見当がつかない。
リツコが自分に示した報告書は何度も作っている書類で間違いなどあるはずもなかったし、質問なら電子メールなり電話なりで十分なはずだった。
「聞きたいのはここ。」
リツコはページをめくって指である範囲を示す。
「この血液検査の結果と、」
ページをめくって別の箇所を示す。
「この問診調書。これに間違いはないの?」
「はい。血液検査の方は規則通り3回別の人間が確認しましたし、その結果については報告書にある通り3回とも同じでした。問診については私が直接話を聞き、それを要約した物ですがこれも間違いありません。何か?」
答えながらその内容を読み返したが、別段おかしな点があるとも思えない。どこにでもあるような一般的な結果だと女医は思う。
「誰か別の人間の結果と入れ替わった可能性は?」
「あり得ません。その検査は二人にしか適用しておりませんし、逆になったというならはっきりと違いは見て分かります。」
「そうね・・・」
リツコもそんなことは分かっていた。だがこのデーターを事実として受け止めるには、あまりにリツコの心理的障壁が大きすぎた。
「つまり、レイが検査時に生理中だったというのは間違いないのね?」
「はい。始まるのがかなり遅かったようですが、現在それ以上の違いは見受けられません。」
(そんなにあの子が生理になるのがいけないのかしら?)
女医はますます分からなくなる。
「他に変わった点は?」
「別にありません。多少情緒不安定でしたが生理中ですし、生理そのものにもまだ戸惑いがある事はおかしな事ではありません。」
「そう・・・分かったわ。下がっていいわ。」
明らかに女医は何か言いたそうだったが、敢えてリツコはそれを無視した。
リツコはため息をついて女医を下がらせる。
「失礼します。」
リツコは再び一人取り残される。
「・・・そんな筈ないのに。」
リツコは机に肘をついて手を組み、その上に頭を乗せて呟いた。
「あの子にそんなこと出来るはずないのよ・・・」
確かに初めに手がけたのは自分ではない。
けれど10年近くその管理を行い、レイの体なら全て知っているはずだった。
「人、じゃないのに・・・」
だから壊した。
「どうして?」
間違いなくレイはそんなことの出来る身体ではなかった。
少なくともネルフでの検査時は一貫してそう予想させる結果が出ていたし、実際にそうはなっていなかった。
「サード・・・インパクト?」
それがレイの身体構造まで変化させてしまったのだろうか。
「人は使徒、その逆も真なり・・・ね・・・」
(一度副司令に会ってみるべきね・・・本人に会ってから・・・)
リツコは目の前の書類を机の引き出しにしまい込む。
いくら権力からほど遠いといっても、暇があり余っているわけではない。それに今まで見過ごしてきた検査結果にも目を通さなくてはならない。さらには仮定を立て、出来る範囲でその証明もしなくてはならない。
「全く・・・誰のための補完計画だったのやら。」
この時リツコに浮かんだのが自嘲だったのか苦笑だったのか本人にも分からない。
だが、レイへの思いとは別に、科学者としての探求心に久しぶりに火がつくのはリツコも自覚しているのだった。
(何を動揺しているのよ。当たり前じゃない、ファーストは結婚してるのよ。出来たって当然じゃない。)
アスカの認識力は目の前にティーカップが置かれた時になっても回復しなかった。回復していればここまでに何か声を掛けただろし、そもそもこのような思考はされていないはずであった。
(あのファーストが・・・)
『意外』
アスカの頭はこの言葉で一杯だった。それが自然であると分かっていても、なおその思いは取り払われない。
十年目にして初めて関係改善したと言っても、アスカのレイのイメージは未だ人形であった。それが人並みの女として妊娠している。なかなかこのギャップは埋まりそうもない。
「どうぞ。」
「え?あ、ありがとう。」
レイの言葉で、アスカは意識をレイに戻した。
目の前のレイはお盆から自分の分のティーカップをアスカの向こう正面に置き、キャンディーやチョコレートの乗った籐の皿をその中央に配している。
そして空になったお盆を横に置き、一苦労という雰囲気でアスカの正面に座った。
「あ、無理しなくていいのよ。大変でしょ。」
「いいの。少しは動いた方がいいらしいから。」
「そうなの。」
会話が途切れる。
まるで自分の言葉を催促されているような気分にアスカは包まれる。が、それは思いこみにすぎなかった。
「驚いた?」
「ま、ね。前はそんなじゃなかったし。」
結婚式の時には別段変わってはいなかった。7ヶ月前のことだからお腹が大きくなっていないのも、髪が今より短かったのも変ではない。
が、アスカの言う「前」は十年前も含んでいた。外見だけでなく雰囲気なども含んでいた。
「色々あったわ・・・この11年、多分それまでの14年間より多くのことがあったから・・・」
それはレイにも伝わったらしく、少し遠くに語りかけるような口調でアスカに答える。
「だから今日あなたが来てくれて嬉しかった。」
レイはアスカを見つめ、はにかむように小さな笑みを浮かべた。
(ファース・・・いえ、レイ・・・)
アスカは自分が恥ずかしくなった。
職業柄、人は誰でも変わるということは理解していたつもりだった。そしてレイは自分を歓迎してくれている。なのに自分は狭く小さな過去を拠り所に、現在の人格を無視しようとしている。
(そうよ。レイも変わった。アタシも変わった。それでいいじゃない。)
100%とは行かないが、限りなくそれに近く納得出来たところで、アスカの口からは自然に言葉が出ていた。
「私も楽しみだったわ。レイ。」
「ところでまだ言ってなかったわね。おめでとう。」
「え?」
「妊娠よ妊娠。まさか太っただけじゃないんでしょ?あ、貰うわね。」
笑いながら、アスカはチョコレートに手を伸ばす。
「どうぞ・・・ありがとう。」
この一言で、レイも救われた気がした。別に催促しているわけではないが、やはり皆に祝福されたいと思うのは自然であるし、過去が過去だけにレイの方にも一抹の不安はあった。
「お土産に・・・持ってきたんだけど、なんか妊娠祝いみたいに、なっちゃったわね。」
チョコレートを食べながらのために、アスカは一文節ずつ区切りながら、持ってきた紙袋の中からきれいな赤い包装紙に包まれた箱を取り出し、レイに差し出した。
「クッキー、よ。・・・偶然なんだけど、変な加工物は入ってないから。ちゃんとレイでも食べれるでしょ?まさかクッキーも嫌いとか言わないでしょうね。」
「大丈夫よ。紅茶に合うからよく食べるわ。」
レイとしてもおかしくなった。昔の自分の食生活が異常であった事は理解していたが、こう直接的に言われると、つい自分でも笑いたくなる。
(レイが苦笑?!いけないいけない・・・)
その姿にアスカは反射的に驚いてしまったが、その感想はすぐに頭から追い出し、自分の髪より少し濃い色をした液体の入ったカップを手に取った。
「ふ〜ん。アールグレイね。いい趣味してるじゃない。」
「セイロンはちょうど切らしてたから・・・今朝気が付いたんだけど行きつけの店が今日は定休日で・・・ごめんなさい。」
(え?)
アスカは意外な思いがした。
レイがそんな言い訳じみた発言をしたことよりも、自分の好みを知っている事にである。
「それはいいんだけど、何で知ってるの?」
レイは、アスカが何を聞いているのかが分からないといった風に、その紅い瞳の奥からじっと正面の青い瞳を見つめている。
「だから、アタシがセイロンティー好きだって事。」
「シンジが教えてくれたわ。」
「なるほど。」
同居していた時、散々注文を付けて紅茶を入れさせていた事を思い出し、アスカは納得してその紅茶を一口啜る。
「おいしい。アンタ意外な特技持ってたのねぇ・・・」
葉の質、水の選定、濃さからお湯の温度など文句のつけようがない。アスカもいろいろな場所で紅茶を飲んできたが、これほど上質の紅茶は久しぶりであった。
「好きだから。」
「ふ〜ん。そういうものかしら?道具もマイセンの使ってるみたいだし、本格的じゃない。」
「それは雑誌の懸賞品。」
「・・・あ、そ。」
アスカは分かったような分からなかったような返事を返して、もう一口紅茶を飲んだ。
(?・・・そう言えば。)
「そういえばさあ、レイ今『シンジ』って言ったわよね。表札見たら綾波って無かったし改姓したんでしょ、やっぱり普段も名前で呼び合ってるの?」
紅茶を置き、両手で頬杖をついてニヤニヤとしながらアスカはレイに尋ねる。
「それとも早くもパパ・ママ、かしら?」
「シンジは私を名前で呼んでるわ。私も前は名前で呼んでた。」
「前?最近は?」
「・・・・・・アナタ・・・」
レイはその白い頬を赤く染め、俯いて小声で答えた。
「お〜お〜お〜ちゃんと夫婦してるのねぇ。」
アスカの冷やかしにもめげず、レイは紅潮した顔を上げて、アスカをしっかりと見つめ言葉を続ける。
「あの人をシンジと言える人は何人もいるわ。だけど夫という意味であなたと言えるのは私だけ。」
(そう、あなたでさえも言えないから・・・)
結婚式でアスカと和解して以来、シンジは少しずつだが葛城家の生活をレイにも語り始めた。それまで言わなかったのは、付き合ってる女性に対して他の女性の話をするべきではないという常識を、珍しくシンジがわきまえていたからでもあるが、何よりシンジ自身がアスカに対するわだかまりを整理仕切れていないからであった。
それが結婚式で氷解した。
やはり自分の過去を封印するのは辛いことでもあるし、結婚した以上それほど嫉妬も呼ばないだろうと判断したシンジは、時折共同生活のことをレイにも話して行く。
その表情は時には辛く、時には嬉しそうに、時には悲しくなりもしたが、レイにとっては羨望を禁じ得ない。
そこにいなかった自分といたアスカ。
嫉妬とまでは行かなかったが、対抗意識が生まれたのは当然のことであっただろう。
それはアスカにも理解できた。レイの目がそう語っているのを明敏なアスカが見逃すはずもなかった。
「だ〜か〜ら。式の時言ったでしょ。あの馬鹿はアンタに任せるって。あいつが言い寄ってきても今更こっちがお断りよ。」
「今更?」
レイの目に警戒の色が光る。探るような気配を漂わせながら、レイは居住まいを正す。
「!違う!絶対ないわ!昔も、今も、これからも。今のは言葉のアヤよ。」
「そ、ならいいわ。」
張りつめた空気が柔らかくなった。
アスカは深くため息を付きながら、ある意味シンジに同情したくなった。同じ女性として妻を泣かせるような男は絶対に許せないが、レイがこれではおそらくシンジは誤解されないように必要以上に気を使っているに違いない。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど、」
「何?」
「もし仮によ、シンジが浮気してると、あ、相手はアタシじゃなくてよ、それに気が付いたらレイはどうする?」
アスカは言葉を選んで、少なくとも自分が疑われないように聞いてみる。
(シンジが浮気したら・・・?)
レイは今まで本気で考えたことはなかった。
だが警戒すべき人間が少なくとも一人増えた現状では、考えておいてもよい課題であるとレイは思う。
「どうしようかしら・・・・・・どうすればいい?」
レイはアスカに微笑んだ。
(目、目が笑ってないっ!)
「さ、さあ?それよりほら、クッキー食べて。おいしいんだから。」
「いただくわ。」
お互いに浮かべた笑みの下、シンジが浮気しないようにとの一点で、二人の心情は一致していた。
「あのさ、ちょっと頼みがあるんだけど。」
「何?」
クッキー談義に一段落付いたところで、アスカは思い出したように話を切りだした。
実は目にした瞬間から気になっていたのだが、いまいち切り出すタイミングを逸していたのだ。ようやく落ち着いてきたところで決心したが、それが適切なタイミングとは本人ですらどうしても思えない。
「お腹、触らせてくれない?」
「・・・構わないわ。」
「あ、いいのよ。こっちが行くから。」
席を立とうとしたレイを手で制し、アスカは自分からレイの元に行く。
(赤ちゃんが、ここに、ねぇ・・・)
椅子に座りったままで、寄ってきたアスカの方に体の向きを変えたレイの、大きく突き出た腹部を見下ろしたアスカは何とも言えない気分に包まれる。
妊婦や幼児を町で見かける事は数知れない。いわゆる新生児も病院で何度も見た。が、ここまでじっくりと臨月の女性の腹部は見たことがなく、構造上自分にもそのような機能があると思うとむずがゆいような気がしてくる。
「意外と固いんだ。」
アスカは服の上からレイの腹部を指で押す。
「知らなかった?」
「知るわけないじゃない。」
何度もその動作を繰り返すアスカを見上げて、レイにはどこか心に余裕が出来たように感じていた。
自分より遙かに知識の豊富であろう人間が、まるで何も知らない子供のように自分に接している。
優越感とは言わないが、事この件に関しては、照れと同時に多少の自負心はレイといえど押さえがたかった。
「それにしても大きいわね〜。重くない?」
「慣れたわ。それに、重くないから。」
(?)
レイの言葉を聞いて、アスカは久しぶりに使う日本語の文法に何とか当てはめようと努力したが、どうしてもその意味を理解することが出来ない。
尚も2・3秒考えたところでアスカは唐突に理解した。
「はいはいはいはい。そりゃあ愛しの旦那さんとの子供なら重くもないでしょうね。ごちそうさま!」
(まさかレイに惚気られるとはね。なんか悔しいわ。・・・一度シンジ誘惑してやろうかしら?)
実行した場合、確実に小さからざる波紋を起こすに違いない復讐の手段が脳裏に浮かんだが、同時に先ほどのレイの目が浮かんできて、アスカは適温である部屋にも関わらず身震いした。
「どうしたの?まだ寒い?」
「そんなことないわ。にしてもよ、見た所レイ臨月じゃないの?」
アスカは別の方法で反撃に出ることにする。
「確か式は7ヶ月前だったわよねぇ。計算が合わないんじゃないかしら?」
「も、問題ないわ。」
「本当に?今時25で結婚なんて早すぎるし、もしかして出来ちゃった結婚じゃないの?」
「気のせい、いえ個人差、よ。」
らしくもなくどもるレイを見て、アスカは勝利を確信した。これ以上言う必要もないかもしれないが、猟犬のような気持ちでアスカはレイを追求する。
「計算で行くと去年の春頃か、いったい何があったのかしら?」
「そうじゃないわ・・・」
体も声も小さくするレイ。
「去年シンジがプロポーズしてくれて・・・それでつい気を許しちゃって・・・」
「出来ちゃった、と。」
「多分・・・」
目を伏せたまま更にうなずくレイ。白い肌にさす赤が一層深くなり、それがまたアスカの嗜虐心をくすぐる。
「あたしはいいんだけどね。ヒカリから聞いたんだけどお、鈴原とか相田、激怒してたみたいよー。今度シンジに会ったらただじゃ置かないとかー。」
「!違うの。隠してたのは私、怒ったのなら私のせい。あの人には式が終わるまで隠してたから・・・」
レイは急に顔を上げた。顔には困惑と動揺が張り付き、これがあのいつも冷静だったレイかと疑うほどの態度だった。
アスカの記憶では、シンジが昔使途に取り込まれたときもレイがこのような表情になったような気がしたが、その雰囲気は少し違ったように思える。
(この辺で許して上げましょうか。)
レイに対してここまで寛容になったことは、アスカ自身驚くべき事とは思ったが、とにかくアスカはレイの機嫌を直すことを最優先にすえた。
「反対されると思った?」
「早すぎると言われたかも。」
「反対した?」
「驚いてたけど、喜んでくれた。」
「なら問題ないじゃない。シンジを信用しきれなかったとか悩んだんでしょうけど、ほら、結婚前には不安になるってよく言うじゃない。それに決まってるわ。」
「シンジにも、同じ事言われた・・・」
(へえー?シンジもしっかりしてきたのねー)
結婚式での雰囲気から多少は大人になったとは思っていたが、予想以上にイメージの修正を迫られるようである。
「『僕がプロポーズする前の気持ちと同じだ』って言ってたわ。そして言ってくれた・・・『だから、不安でも、怒りたくなっても、最後には相手を想う家族になろうって』・・・私、嬉しくて泣いたわ。」
(・・・・・・・・・・・)
修正どころではない。レイから聞いた限りだが、アスカの感覚では、どうやらシンジは別人になってしまったようであった。
「そ、それは良かったわね。で、今は信用してる?」
「・・・多分。」
レイとしても、果たして心の底から信用できているかと聞かれれば正直自信はない。そのつもりではあるが、それが必要とされる状況が起こっているわけでもないので確認のしようがない。
「何か曖昧ね。そうね、じゃあ聞き方を変えるけど、あなた以上にシンジを愛してる人がいると思う?」
「絶対にいないわ。」
レイは即答した。声に気負いが感じられる所にまだ新婚の初々しさが残るが、それはアスカにとってもマイナスにはなり得なかった。
シンジの両親が健在であればまた答えは変わったかもしれないが、現在に於いて、レイは誰にもその点では誰にも負ける気はしない。更に付け加えるならば、そう言う状況は起こって欲しくはないというのが本音である。
アスカはそんなレイの答えを聞いて安心した。
穏やかな笑みを浮かべてレイの腹部に手を乗せる。
「良かったわね。あなたのママ、幸せそうよ。」
そう語りかけて、何度もその球面を撫でるのだった。
「惣流さん。」
「ん?」
「ありがとう。」
アスカはレイの言葉に、信頼と感謝の音色を感じた。
(柄にもないわね。)
何となく恥ずかしくなって、アスカは頭を掻きながらレイから視線をはずす。
「いいのよ。それよりアタシのことはアスカでいいから。」
「ええ。あっ・・・」
「あっ!」
二人は同時に声を上げ、同時に顔を見合わせた。
「動いた・・・わね。」
レイも肯き、互いに見つめ合ったまま、無言の数秒間が流れる。
「くっ・・・あははははは。こっちから返事が来るとは思わなかったわ。」
まるで今までの沈黙を吹き飛ばすようなアスカの明るい笑い声に、レイは嬉しいような恥ずかしいような、そんな心地良い気持ちに包まれるのだった。
「もう一杯貰える?」
アスカは空になったティーカップの取っ手を行儀悪く指に引っかけ、持ち上げて揺らしながらレイにお代わりを催促した。
「今入れるわ。」
当たり前のことだが、レイは席を立つことさえ簡単には行かないようで、アスカから見れば、本当に苦労してと言う感じで席を立った。
「いいわ。自分でやる。」
「いいから座ってて。」
アスカも席を立ったが、レイはそう言い残すと台所へ消えていった。
(仕方ないわね・・・)
仮に自分が同じ立場でも、ホステスとして客に仕事などさせられないだろうから、レイの態度には何ら異議は感じない。むしろそれを忘れて、迂闊にもお代わりを頼んでしまった自分に腹が立つ。
「どうぞ。」
約3分30秒後、居間に戻ってきたレイは、アスカの前に新しいカップを差し出した。そして再びゆっくりと正面の椅子に腰を掛ける。
「でもさ、のろけ話はいいとして、ずいぶん動きにくそうじゃない。大体赤ちゃんの体重って2キロ半から4キロでしょ?そんなに今までと変わる物?」
アスカは既に食べ終えたチョコレートの包み紙をいじりながら、何気なく聞いてみた。
「だってそれくらいならちょっと食べ過ぎちゃうとすぐ増えるでしょ?レイの普段の体重は知らないけど、大したことないように思えるんだけど。」
「そうね。重さそのものより、体型の変化で動きにくくなるの。」
それがレイの返答だった。
(ウェスト100位かしら?)
アスカは心の中でウエスト100の自分を想像しようとしたが、どうしても具象化できないのでその努力は諦めた。
ゲルマン民族の血のせいか、現在の理想的プロポーションを維持するのはアスカに多大な努力を強いる。正直な所、一部分とはいえサイズが倍になるなどアスカには恐怖以外の何者でもない。
「それに・・・私達の場合もう少し重いから・・・」
果たして「達」とは誰を指しているのか。レイ夫妻か、レイ親子か、或いはその両者か。疑問には思ったが、別に聞くほどでもないと思ってアスカはそれについては流す。
「もう少しって言うと5キロ位?それってものすごく大きくない?」
平均的日本人女性の体型であるレイの中に5キロの子供がいる。想像力豊かなアスカですら想像しにくかった。
「もっと。」
「うそっ!」
「二人で・・・ね。」
「は?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まさか双子ぉ!?」
アスカは思わず椅子から立ち上がり、レイの方に身を乗り出して驚きを表した。
(もったいぶった甲斐があったわ。)
レイの方はと言えば、予想通りアスカの驚いた姿を見ることが出来て、心の中で快哉を上げる。
「・・・全くアンタって人間は・・・よっぽど人を驚かすのが好きみたいね。」
放心したように椅子に腰を落としたアスカの口からは、率直な感想が出てくる。
「で、性別とか分かってるの?」
「別々だそうよ。」
「そっか。めんどくさいわね。」
アスカは背もたれに体重を預け、天井にぶら下がる照明の方に目をやった。
「そう?」
レイは首を傾げる。自分でも初めての子供が双子と言うことで大変だとは思ったことはあったが、面倒だと思ったことはない。
「だってさ、赤ちゃんの時はいいわよ。でもそのうち着る物は別々のが必要だろうし、部屋だっていつまでも一緒って訳にはいかないでしょ?躾け方だって違うんじゃないの?」
レイは首を横に振った。
「どちらにしても私達には初めて子供だから、どちらが楽で、どちらが面倒なんてないわ。それに、これから子供を育てるのと一緒に、親としての自分も育てなくてはならないから・・・」
「アンタ立派ねぇ・・・」
レイがまさかこれほど前向きの性格とは思っていなかった。もしかするとそうだったのかもしれないが、アスカの記憶では、ここまではっきりと物を言う人間ではなかったはずだ。
「・・・全部葛城さんの受け売り・・・」
「げ、アンタミサトに聞いてるの?何もあんなのに聞くことないじゃない。」
アスカにとって最も家庭人とは縁遠い人間がミサトであった。ミサトに教えを請うくらいなら、育児書片手に自力で学ぶ方が何倍にもましに思える。
実際ミサトには育児経験はない。
生存はとうの昔に諦めていた加持リョウジとの再会後、ミサトは加持の内縁の妻に収まっていた。
これは加持の戸籍が抹消されていたため、法律的に結婚できなかったと言うだけのことなのだが、ミサトは今まで子供は産んではいない。
「お互い仕事に忙しいから」と言うのが本人の弁であったが、レイにはそれが弁解のような気がしてならない。もっと深いところで、どちらかが子供を持つことに抵抗しているのではないかと考えていた。
「別に教わっているわけではないわ。ただ、あの人の生き方を聞いているだけ。学ぶにしろ反面教師にするにしろ、本気で私達のことを気に掛けてくれているから。」
「反面教師としてなら役に立つと思うけど・・・」
どうやらこの夫妻が、ミサトにかなりの信頼を置いているのは間違いなかった。アスカとしては納得しがたいが、この夫妻がそう思っているならば敢えて反対する理由は別にない。
「でも丁度良かったかもしれない。」
「なんで?」
「シンジは女の子が欲しかったみたいだし、私は男の子が良かったから。」
「・・・・・・・・・ぷっ。」
娘に甘えられてにやけるシンジと息子に構い過ぎるレイ。何となくアスカの脳裏に浮かんできた光景だが、妙に現実感があって思わずアスカは吹き出してしまう。
「何が可笑しいの?」
「何でもないのよ。ただきっと可愛がるんでしょうねと思っただけ。」
「何が言いたいの?」
いかなレイとてそれを素直に信じるはずもなく、疑わしげな視線を尚も笑いながら右手を左右に振るアスカに向けた。
「まあまあ。二人とも望みが叶ったんだからいいじゃない。で、名前はもう決まってるの?」
強引に話を切り替えられた気もするが、自分で言ったように、確かにそれぞれの望みが叶ったという面は否定できない。それにこの雰囲気を悪くする答えが返ってきては元も子もない。だからレイとしても余りこの件を深く追求する気にはなれなかった。
「あれ。」
レイは丁度テレビの上に位置し、部屋の端から端まで続くガラス戸の収納を指さした。
「・・・・・・・・・・・・・・何よ、本しかないじゃない。」
『命名××』という紙を期待したアスカだったが、そんな物は端から端までどこを探しても存在せず、ただ本が並べられているのみであった。
「よく見て。」
「何をよ。」
そう言いながら、アスカは端から改めて棚を見直す。
「・・・・・・・・まさか、全部その手の本?」
レイは肯いた。
見れば古今東西ありとあらゆるジャンルの命名法についての本が並べられている。中には呪いではないかと思えるようなタイトルも見受けられる所から、余程それに悩んでいるらしい。
「『初めての贈り物なんだから、いい加減なことは出来ない』って・・・それはその通りなんだけど・・・」
「相変わらずねぇ・・・」
そう言った物の、シンジが変わっていないことに何となくホッとするアスカであった。
「で、レイの考えは?一応あるんじゃない、お気に入りの名前が。」
アスカのその問いにレイは一旦目を伏せ、コンマ5秒後に顔を上げた。
「秘密。」
レイは人差し指を薄くルージュを引いた唇に当て、実年齢以上に若く見えるその顔をほころばせる。
「いいじゃない、減るもんじゃないんだし。」
ようやくアスカもレイの変化に慣れてきた。
腕を組んで机に肘を付き、身を乗り出すようにしてレイに詰め寄る。
「決まったら教えるわ。」
「どうしても?」
「ええ。」
「・・・強情ね〜。全く、やっぱアンタも変わってないわ。」
(そう、やっぱりアンタ達変わってないわ。)
人がどう変わるにしろ、やはり自分の知っていた一面を見せられると安心する。ため息を付いて、アスカはこれ以上のレイ攻略を諦めたものの、その顔は満足げな物であった。
「ま、いいわ。」
アスカは姿勢を元に戻し、横に置いてあったティーカップを手にとって軽く持ち上げる。
そして真っ直ぐレイの瞳を見つめ、おどけたような、それでいて少し真面目になったような表情を作った。
「ファーストのファーストチルドレンに、乾杯!」
カップの中の液体は、窓から差し込む清冽な日光で煌めいている。その煌めきも、青空の輝きも、アスカの笑顔も、レイにはこの上なく貴重な物に感じられた。