月の裏側

BY秋月






私の前には何処までも続くかと思われる橙色の揺らぎもしない水面と暗い紅色の空間が拡がっていた。そこに存在するのは私と目の前の腰の辺りまで浸った人影だけだった。
私は見慣れた顔に問いかける。

「あなた誰?」

「使徒。」

「私達が使徒と呼んでいるシト。」

それには答えずに、「私」が囁く。

「私と一つにならない?」

「いいえ、私は私、あなたじゃないもの。」

「私は私。私は今までの時間と、他人との関わりの中で、私になったわ。」

「そう。でも駄目。もう遅いわ。私の心をあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる。痛いでしょう?ほら、心が痛いでしょう?」

私の答えを気にする素振りも見せず、相手は囁く。言葉の途中で変化が訪れる。目の前の顔に薄く笑いが浮かび、今まで揺らぎもしなかった水面が彼女?彼?を中心として波紋を刻む。気づくと今まで変化がないと思っていた水面はいつの間にか私の足をぬらし始めていた。同時に私の体は爪先から順々に這い上がるように毛細血管のような輪郭に覆われていく。それが脈動し、全身に嫌悪感で包まれる。そして、胸に何千、何百本もの針が突き刺ささったかのような鋭い痛み。

「痛い・・・いえ、違うわ・・・淋しい。」

「そう、淋しいのね。淋しい?分からないわ。」

「一人が嫌なんでしょ?私達はたくさんいるのに、一人でいるのが嫌なんでしょ?それを淋しい、と言うの。」

「それは、あなたの心よ。悲しみに満ち満ちているあなた自身の心よ。」

その言葉によって何かが私の中で変わる・・・いえ、自分では無いと思っていたものが目覚めたような気がした。
そして、気づく、自分の目から溢れ、LCLに浮かぶ水滴に。

「これが・・・涙?泣いているのは・・・私?」



急に使徒が何かに襲いかかる、その動きに零号機は引きずられる。そして、視界の隅に紫色の巨人の姿が入る。

「碇君!」

思わず叫び、呆然としたままそれでも私の目は初号機に襲いかかっている使徒の動きを追う。

「これは私の心?碇君と一緒になりたい・・・私の・・・」

「だめっ!」

『碇君は私が守る。』

何時かの言葉が今度は命令としてではなく自然と思い浮かぶ。

「零号機のATフィールド逆転、使徒を押さえ込みます。」

「レイ、死ぬ気。」



「レイ、脱出して!」

「だめ、今私がいなくなるとATフィールドがなくなるもの。」

思うように動かない体を引きずるようにしてシートの後ろに手を伸ばしレバーを引く。

「レイ!」

葛城三佐の悲痛な叫び声が聞こえたが、それには私を制止する力を持っていなかった。私はやっと自爆装置の起動を確かめた後、思わず振り向いた。その時、碇指令の笑顔を・・・見たような気がした。

そして、一瞬のうちに視界が白く染まった。



私が目を覚ましたのは見慣れた白い天井だった。疑問が脳裏をよぎる。体を起こし周りを見回す。誰もいない。

(私はどうしてここにいるのだろう。)

記憶をたどってみる。使徒が現れ、零号で出撃し、使徒から浸食を受け・・・そして。そこまで記憶を遡って、恐る恐る体を確認してみる。包帯が全身に巻かれている。しかし、体の何処にも痛みはない・・・そして、理解した自分の状態を。それは痛みを伴う認識だった。

(そう、「私」は死んだのね・・・)



「綾波!」

病院の窓からいつものように外を見ているときにその声は聞こえてきた。彼は私を見て安心したかのように微笑んだ。走ってきたのだろうか、僅かに息が乱れていた。私は振り向き彼のその表情を見て、胸に痛みを感じた。顔には出ていなかっただろうが、急に恥ずかしくなり、何も答えずに彼に背中を向けて歩き出す。彼は何か言おうとしたようだったが黙って私の後を付いてきた。

彼が次に口を開いたのは私が手近なベンチに座ってからだった。彼は私の横には座らずにベンチの横の窓から射し込む強くそして朧気な光の中に立ち、壁に背をあずけた。

しばらくして口を開いた。

「よかった、綾波が無事で・・・」
彼は本当に嬉しそうに微笑んでそう言った。私の心中はその言葉を聞いて嬉しいと感じた。

(碇君、心配してくれたのね・・・私を・・・)

「あの、父さんは来てないんだ・・・」

彼は続けてそう言った。碇指令は来ていない。何故だか気にならなかった。彼がいてくれる、そのことの方が嬉しかった。

「あの・・・ありがとう、助けてくれて・・・」

(ありがとう、感謝の言葉)

(彼が「私」に教えてくれたこと)

(私は彼に何かしただろうか)

「何のこと。」

結局分からなかったため彼に聞いてみた。

「助けてくれたじゃないか・・・零号機を捨ててまで。」

辛そうな響きがその声に宿る。私は彼の顔をそっと覗いてみる。彼の顔は本当に辛そうな表情を浮かべていた。私の胸はその表情によって痛みを生じた。彼の言葉は「私」のことを私に思い出させた。

私はもう碇君の顔を見ることは出来なかった。いつものように無表情に、いつもと違い僅かに俯くように。

「そう・・・あなたを助けたの。」

(そう、助けたの「私」は・・・「二人目の私」は・・・碇君、あなたを・・・)

(でも、今の「私」は・・・あなたの知っている「私」ではない・・・)

(「彼女」は望んでいたわ)

(あなたを)
(碇君を)

(碇君と一つになることを・・・)

「覚えてないの?」

彼の声が驚きと怪訝そうなものに変わる。

(違う、覚えている)

(でも、この想いは「私」のものではないもの。)

(この想いは「彼女」のもの・・・)

(これは「彼女」の想い・・・)

(伝えられなかった・・・「彼女」の想い・・・)

(「私」は・・・)

「いいえ・・・知らないの。」

普段は意識する必要もないいつも通りの無表情を心がけつつ、胸の内に激しい葛藤が渦を巻くことに耐える。

(碇君、あなたがその言葉を伝えるべきなのは、私ではないの・・・)

(その言葉を受けるべき者はもういなの。)

(「彼女」は、「二人目の綾波レイ」はもういないのだから。)

(「彼女」の・・・碇君や周りの人達との絆は使徒とともに消えた。たとえ記憶を持っていても今の「私」は・・・)

「私は・・・三人目だと思うから。」

私はそういうのが精一杯だった。そして、その言葉を最後に沈黙がその場を支配した。



翌日



私は二人目の綾波レイが「彼女」が使用していた部屋で静かに鏡を見ている。ゆっくりと全身に巻かれた包帯をとっていく。包帯の下からはいつもと変わらない色素が抜けっきたような異常に白い肌が現れる。またしばらくいつものように無表情に眺め、耐えられなくなり、目を反らす。部屋の隅にあるタンスに近づき、引き出しを開き、大事に仕舞われていた眼鏡ケースを取り出す。
ケースを開き、レンズにヒビが入り、熱で変形した眼鏡を丁寧にを取り出し、じっと見つめる。

(これが、今の私の唯一の絆・・・それとも、これも二人目の・・・)

(彼女の絆に過ぎないのだろうか?)

(私の絆にはならないのだろうか?)

零号機での最後の瞬間に、自分の見たものを思い出す。零号機が暴走し、排出されたエントリープラグのハッジをこじ開けて私を助けてくれた時の碇指令の笑顔。今はその笑顔にもう一つの笑顔が重なる。いつかと逆に・・・。

(碇指令の顔、まだ見ていない。)

自分が目覚めてから見た顔を思い出す、見知った顔は碇君の顔だけ。
眼鏡をつかむ手にだんだんと力がはいっていき、両手で眼鏡を握りしめる。
静かな部屋の中にレンズにヒビが拡がる音が響く、なおも力を入れようとした時その手の甲に何か暖かいものが落ちた。力を緩め、何か不思議なものでも見ているかのようにそれを見つめる。その間にも後から後から、「それ」は流れ出してきた。

「これが・・・涙。」

「私・・・泣いてるの。初めてのはずなのに・・・初めてじゃない気がする。」

それだけ言うと、その場に立っていられなくなり、崩れるように座り込んだ。肩が震え、嗚咽を漏れ出す。

(絆はまだ残っているの・・・)

(碇君?)

(「私」の絆は・・・あなたとの絆は・・・残っているの?)

(私に・・・碇君・・・)

涙は二人目の私が最後の瞬間に手に入れたもの、その絆がまだ残っているのか、どうしても判断を付けることが出来ず、今、私に出来ることは、泣き続けることだけだった。
止めどなく流れ出す涙にすがって・・・

ただ静寂の中を嗚咽が満たしていく。







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